長畑さんぽ
7月 23rd, 2022大源太山、七ツ小屋山
6月 18th, 2022生まれた時からアルデンテ – 平野紗季子
6月 8th, 2022すべての幸福は食から始まると信じ、常に食の偉人の本と共にある。粗食の日には「またしょうもないものを食ってしまった」と涙する。知らない街を歩いて、先々出会ったものを食べ続けようとする。ようは食中毒である。
食に関するエッセイです
フレッシュな感覚にあふれていておいしい。
最近じゃ、食べものを食べる前からその食べ物に異常に詳しいということが当たり前で、情報を受け取った時から食べ始めちゃってるようなもので、実際にその食事と対峙する時には答え合わせの追体験でしかないなんて、そんな不感症グルメが溢れている気がする。既視感にまみれていては心が老ける老ける。
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食べものって残らないじゃないですか。だから凄い執着しちゃう。もうここに無い、ここに無いもの、って思うと、じゃあそれ残せるの自分の心しか無くない?って、切実に向き合いたくなる。
善光寺~葛山~ブランド薬師
5月 28th, 2022月山・鳥海山 – 森敦
5月 26th, 2022死とは死によってすべてから去るものであるとすれば、すべてから去られるときも死であるといってよいに違いない。いったい、わたしの友人はわたしを思いだしてくれているのか。忘れるともなく友人を忘れてここに来たのは、むしろわたしのほうであったのに、わたしにはなにか友人に忘れられたことへの怨恨すら感じられて来るのです。目はただ冴えるばかりですが、もし言うように死が大いなる眠りであるとすれば、これがほんとの眠りにおける夢というものかもしれません。
わたしは今どこにいるのか?
と問うてくる声は、生から聴こえてくるのか? 死から聴こえてくるのか?
こうして死んだ人が、われわれに立ちまじってくるために、さも時間の中にいるように、懐中時計を持って来るということもあり得ぬことではない。なぜなら、わたしたちもこうして生きていると思っているが、どうしてそれを知ることができるのか。それを知るには死によるほかはないのだが、生きているかぎり死を知ることはできないのだ。かくて、わたしたちはもどき、だましの死との取り引きにおいて、もどき、だましの生を得ようとし、死もまたもどき、だましの死を得ようとして、もどき、だましの生との取り引きをしようとするのである。それでもこうして、この世も、あの世もなり立っている。深く問うて、われも人も正体を現すことはない。人は生が眠るとき、死が目覚めると思っている。しかし、その取り引きにおいて、生が眠るとき死も眠るのだ。
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