『大人は楽しくなければ』
Archive for the ‘書籍’ Category
今も未来も変わらない / 長嶋有
木曜日, 6月 13th, 2024精選女性随筆集 倉橋由美子
水曜日, 4月 3rd, 2024うんち学入門
日曜日, 3月 26th, 2023M/Tと森のフシギの物語 / 大江健三郎
金曜日, 3月 17th, 2023ある人間の生涯を考えるとして、その誕生の時から始めるのじゃなく、そこよりはるか前までさかのぼり、またかれが死んだ日でしめくくるのでなしに、さらに先へ延ばす仕方で、見取図を書くことは必要です。あるひとりの人間がこの世に生まれ出ることは、単にかれひとりの生と死ということにとどまらないはずです。かれがふくみこまれている人びとの輪の、大きな翳のなかに生まれてきて、そして死んだあともなんらかの、続いてゆくものがあるはずだからです。
有限の生を俯瞰して、生の関係が続いてゆくものとして捉え直す。
そのようにバラバラになってしもうて、それぞれ思いおもいにこの世へ生まれ出た私らは、しかし自分のいのちのなかにな、「森のフシギ」という、自分らがもともとそこにあったものに懐かしさを感じておるのじゃなかろうか?
(・・・)
ここで人が死んだらば、魂になって森の高みに昇って、樹木の根方にとどまる。それも「森のフシギ」が、この森の樹木を特別なものにしておるからでしょうが! そしてやはり「森のフシギ」に励まされて、魂は新しい赤んぼうの身体に入るのでしょう……
それは確かに同じことの繰りかえしであるけれども、なぜそのような繰りかえしがあるかといいますならば、それは魂がみがかれて、「森のフシギ」のなかにあった、もとのいのちに戻れるまで、清らかになるためやと思いますが!
ご冥福をお祈りいたします。
――大丈夫、大丈夫、殺されてもなあ、わたしがまたすぐに生んであげるよ!
生まれた時からアルデンテ – 平野紗季子
水曜日, 6月 8th, 2022すべての幸福は食から始まると信じ、常に食の偉人の本と共にある。粗食の日には「またしょうもないものを食ってしまった」と涙する。知らない街を歩いて、先々出会ったものを食べ続けようとする。ようは食中毒である。
食に関するエッセイです
フレッシュな感覚にあふれていておいしい。
最近じゃ、食べものを食べる前からその食べ物に異常に詳しいということが当たり前で、情報を受け取った時から食べ始めちゃってるようなもので、実際にその食事と対峙する時には答え合わせの追体験でしかないなんて、そんな不感症グルメが溢れている気がする。既視感にまみれていては心が老ける老ける。
—
食べものって残らないじゃないですか。だから凄い執着しちゃう。もうここに無い、ここに無いもの、って思うと、じゃあそれ残せるの自分の心しか無くない?って、切実に向き合いたくなる。
月山・鳥海山 – 森敦
木曜日, 5月 26th, 2022死とは死によってすべてから去るものであるとすれば、すべてから去られるときも死であるといってよいに違いない。いったい、わたしの友人はわたしを思いだしてくれているのか。忘れるともなく友人を忘れてここに来たのは、むしろわたしのほうであったのに、わたしにはなにか友人に忘れられたことへの怨恨すら感じられて来るのです。目はただ冴えるばかりですが、もし言うように死が大いなる眠りであるとすれば、これがほんとの眠りにおける夢というものかもしれません。
わたしは今どこにいるのか?
と問うてくる声は、生から聴こえてくるのか? 死から聴こえてくるのか?
こうして死んだ人が、われわれに立ちまじってくるために、さも時間の中にいるように、懐中時計を持って来るということもあり得ぬことではない。なぜなら、わたしたちもこうして生きていると思っているが、どうしてそれを知ることができるのか。それを知るには死によるほかはないのだが、生きているかぎり死を知ることはできないのだ。かくて、わたしたちはもどき、だましの死との取り引きにおいて、もどき、だましの生を得ようとし、死もまたもどき、だましの死を得ようとして、もどき、だましの生との取り引きをしようとするのである。それでもこうして、この世も、あの世もなり立っている。深く問うて、われも人も正体を現すことはない。人は生が眠るとき、死が目覚めると思っている。しかし、その取り引きにおいて、生が眠るとき死も眠るのだ。
ギケイキ2 – 町田康
水曜日, 2月 9th, 2022戦争というものはそうして当たり前の判断ができる者が勝つ。にもかかわらず多くの人がともすれば当たり前じゃない判断をしてしまいがちなのは、あちこちで人がバンバン死ぬという当たり前じゃない光景を目の当たりにして、こんな当たり前じゃないときに当たり前のことをしていたら負けるのが当たり前だと当たり前に思ってしまうからである。
(・・・)
ただしひとつだけ注意しなければならないのは、そのときの自分の判断の方が当たり前じゃなくなってしまっているかも知れない、という点で、自分が当たり前じゃなくなってしまっていると、当たり前のことをやっている人が気がおかしい人に見えてしまう。(・・・)どう考えてもこれが当たり前でしょう、と一点の曇りもなく思うときほど立ち止まって自分の正気を疑うべきなのである。
紙一重りんちゃん① – 長崎ライチ
火曜日, 1月 18th, 2022ゆっくりおやすみ、樹の下で / 高橋源一郎
火曜日, 10月 26th, 2021きっとあの人は眠っているんだよ / 穂村弘
木曜日, 7月 22nd, 2021そもそも「ふつう」からズレた世界像とは、何のために存在するのだろう。それは無数に分岐する未来の可能性に、我々が種として対応するための準備ではないか。「ふつう」でない世界像の持ち主は「宇宙人」というより「未来人」なのだ。
一方、「ふつう」への同調圧力とは、均一化された現在への過剰適応であり、状況がいい時は効率的に作用する。しかし、状況が変化したり、限界に達したりした時、危険なことになる。現在の流れに固執して生き延びようとする「ふつう」は、まだ見ぬ未来の価値観を怖れ、生理的に強く反発する。そして、自分たちの未来の命綱を自らの手で切ろうとするのだ。
読書によって切り拓かれた選択肢に、より良い未来が待っているのかもしれない。