Archive for the ‘書籍’ Category

精選女性随筆集 倉橋由美子

水曜日, 4月 3rd, 2024

「わたしは《世界》を拒絶するどころか、承認し、服従することから出発し、完璧な《技術》を用いて、それとさとられぬままに、《世界》の中身をすりかえなければなりません。」

うんち学入門

日曜日, 3月 26th, 2023

「生き物は内部環境で自身を外界と隔て、外部環境に囲まれて生きている。『からだの内外』は一見、截然と分かれているように思えるけれど、消化管はどうだろう? 開口部である口と肛門は外部環境に向かって開いているから、消化管の中は『完全な内部環境』とはいえないかもしれないね。『うんち』が誕生する消化管の中は果たして、『からだの内部』だろうか、『からだの外部』だろうか?」

M/Tと森のフシギの物語 / 大江健三郎

金曜日, 3月 17th, 2023

ある人間の生涯を考えるとして、その誕生の時から始めるのじゃなく、そこよりはるか前までさかのぼり、またかれが死んだ日でしめくくるのでなしに、さらに先へ延ばす仕方で、見取図を書くことは必要です。あるひとりの人間がこの世に生まれ出ることは、単にかれひとりの生と死ということにとどまらないはずです。かれがふくみこまれている人びとの輪の、大きな翳のなかに生まれてきて、そして死んだあともなんらかの、続いてゆくものがあるはずだからです。

有限の生を俯瞰して、生の関係が続いてゆくものとして捉え直す。

そのようにバラバラになってしもうて、それぞれ思いおもいにこの世へ生まれ出た私らは、しかし自分のいのちのなかにな、「森のフシギ」という、自分らがもともとそこにあったものに懐かしさを感じておるのじゃなかろうか?
(・・・)
ここで人が死んだらば、魂になって森の高みに昇って、樹木の根方にとどまる。それも「森のフシギ」が、この森の樹木を特別なものにしておるからでしょうが! そしてやはり「森のフシギ」に励まされて、魂は新しい赤んぼうの身体に入るのでしょう……
それは確かに同じことの繰りかえしであるけれども、なぜそのような繰りかえしがあるかといいますならば、それは魂がみがかれて、「森のフシギ」のなかにあった、もとのいのちに戻れるまで、清らかになるためやと思いますが!

ご冥福をお祈りいたします。

――大丈夫、大丈夫、殺されてもなあ、わたしがまたすぐに生んであげるよ!

生まれた時からアルデンテ – 平野紗季子

水曜日, 6月 8th, 2022

すべての幸福は食から始まると信じ、常に食の偉人の本と共にある。粗食の日には「またしょうもないものを食ってしまった」と涙する。知らない街を歩いて、先々出会ったものを食べ続けようとする。ようは食中毒である。

食に関するエッセイです
フレッシュな感覚にあふれていておいしい。

最近じゃ、食べものを食べる前からその食べ物に異常に詳しいということが当たり前で、情報を受け取った時から食べ始めちゃってるようなもので、実際にその食事と対峙する時には答え合わせの追体験でしかないなんて、そんな不感症グルメが溢れている気がする。既視感にまみれていては心が老ける老ける。

食べものって残らないじゃないですか。だから凄い執着しちゃう。もうここに無い、ここに無いもの、って思うと、じゃあそれ残せるの自分の心しか無くない?って、切実に向き合いたくなる。

月山・鳥海山 – 森敦

木曜日, 5月 26th, 2022

死とは死によってすべてから去るものであるとすれば、すべてから去られるときも死であるといってよいに違いない。いったい、わたしの友人はわたしを思いだしてくれているのか。忘れるともなく友人を忘れてここに来たのは、むしろわたしのほうであったのに、わたしにはなにか友人に忘れられたことへの怨恨すら感じられて来るのです。目はただ冴えるばかりですが、もし言うように死が大いなる眠りであるとすれば、これがほんとの眠りにおける夢というものかもしれません。

わたしは今どこにいるのか?
と問うてくる声は、生から聴こえてくるのか? 死から聴こえてくるのか?

こうして死んだ人が、われわれに立ちまじってくるために、さも時間の中にいるように、懐中時計を持って来るということもあり得ぬことではない。なぜなら、わたしたちもこうして生きていると思っているが、どうしてそれを知ることができるのか。それを知るには死によるほかはないのだが、生きているかぎり死を知ることはできないのだ。かくて、わたしたちはもどき、だましの死との取り引きにおいて、もどき、だましの生を得ようとし、死もまたもどき、だましの死を得ようとして、もどき、だましの生との取り引きをしようとするのである。それでもこうして、この世も、あの世もなり立っている。深く問うて、われも人も正体を現すことはない。人は生が眠るとき、死が目覚めると思っている。しかし、その取り引きにおいて、生が眠るとき死も眠るのだ。

ギケイキ2 – 町田康

水曜日, 2月 9th, 2022

戦争というものはそうして当たり前の判断ができる者が勝つ。にもかかわらず多くの人がともすれば当たり前じゃない判断をしてしまいがちなのは、あちこちで人がバンバン死ぬという当たり前じゃない光景を目の当たりにして、こんな当たり前じゃないときに当たり前のことをしていたら負けるのが当たり前だと当たり前に思ってしまうからである。
(・・・)
ただしひとつだけ注意しなければならないのは、そのときの自分の判断の方が当たり前じゃなくなってしまっているかも知れない、という点で、自分が当たり前じゃなくなってしまっていると、当たり前のことをやっている人が気がおかしい人に見えてしまう。(・・・)どう考えてもこれが当たり前でしょう、と一点の曇りもなく思うときほど立ち止まって自分の正気を疑うべきなのである。

紙一重りんちゃん① – 長崎ライチ

火曜日, 1月 18th, 2022

「考えるな感じろ」と君が言ってくれる時「考えるな感じろ」と君は考えているんだよね!?

ゆっくりおやすみ、樹の下で / 高橋源一郎

火曜日, 10月 26th, 2021

世界に残った悲しみが別の世界で修復されるのを待っている。

「あたしたちが生きているこの世界そのものが、一冊の、とびきり大きい本で、しかも、どの頁をめくってもかまわないんだ」

きっとあの人は眠っているんだよ / 穂村弘

木曜日, 7月 22nd, 2021

読書とは、自分と異なる世界像を言葉を介して読む行為である。

そもそも「ふつう」からズレた世界像とは、何のために存在するのだろう。それは無数に分岐する未来の可能性に、我々が種として対応するための準備ではないか。「ふつう」でない世界像の持ち主は「宇宙人」というより「未来人」なのだ。
一方、「ふつう」への同調圧力とは、均一化された現在への過剰適応であり、状況がいい時は効率的に作用する。しかし、状況が変化したり、限界に達したりした時、危険なことになる。現在の流れに固執して生き延びようとする「ふつう」は、まだ見ぬ未来の価値観を怖れ、生理的に強く反発する。そして、自分たちの未来の命綱を自らの手で切ろうとするのだ。

読書によって切り拓かれた選択肢に、より良い未来が待っているのかもしれない。

川の光 / 松浦寿輝

火曜日, 10月 6th, 2020

何てきれいなんだろう、とタータは思った。川の流れは止まることがない。悲しかったことも嫌だったことも、何もかも押し流してゆく。もちろんついでに、楽しかったことや嬉しかったことも押し流されてゆくけれど、それでいいんだとタータは思った。美しいものも醜いものもどんどん過ぎ去って、でも川の水はいつも新しい。大事なのはそのことだ。川と一緒にいるかぎり、ぼく自身もまた、いつだって新しい自分自身になることができる。ぼくはこの川が大好きだ。

三の隣は五号室 / 長嶋有

水曜日, 4月 29th, 2020

この世界はひみつ道具なんかで面白くなるのではない。常と異なる狭い「室」でなにかの予感を抱きながら目を閉じるだけで、いい。

五号室が見とどけた13の住人たちの記憶


言葉にすると、ただのいい話になってしまうじゃないか。単身赴任に含まれる「単身」という語を志郎は思い描いた。望んだ暮らしではなかったが、この九ヵ月、まさに単身で、俺だけで俺を生きた。その証拠のようにハナコが俺だけにしてくれた、俺だけの話だ。

人生パンク道場 / 町田康

金曜日, 4月 26th, 2019


考えを伝える間もなく・・・?




「人間は忘れるようにできています。だからといって忘れるままにしておいてよいという訳ではなく、悲しみは悲しみとして大事にする。そのことが寂しい思いを抱えて死んでいったものに対して私たちが取り得るもっとも誠実な態度ではないでしょうか。そうしたっていずれは忘れてしまうのですから。
 そしていずれは私たちもこの世からいなくなります。そして忘れられていくのです。だったら生きている間だけでもそいつのことを何度でも思い出してやりたい。私はそう思うのです。」

ぼくもそう思う。

鳥肌が / 穂村弘

日曜日, 10月 22nd, 2017


・ぼ・・・・・・・・・・
・・・・・・・・ぼ・・・
・・・・ぼ・・・・・・・


良いことだろうが悪いことだろうが、他人という存在の扉を叩く行為は本質的には常におそろしい。何故なら、他人とは、自分とは異なる命の塊だから。そこには眩しいほどの未知性が詰まっている。それこそが恐怖の源であり、同時に喜びの源でもあるのだろう。

あなたが子供だった頃、わたしはもう大人だった / 川崎徹

日曜日, 10月 22nd, 2017

思い出すこと以外、できなくなる。

思い出されること以外・・・

「先生、よく聞こえませんでした。もう一度言ってください」
「ぼくがここで死んでいた間、君はずっと生きていた」
平山は頭のなかで英文を綴った。
わたしはずっと生きていた、先生がそこで死んでいた間。

もう生まれたくない / 長嶋有

日曜日, 10月 22nd, 2017



先生とは「先」に「生」きた人と書く。先に生きた人たちに、シルビア・クリステルという女優がどんな風に思われていたかは後に生きる素成夫には絶対に分からない。それなのに彼女の映像だけは残っているから、先に生きなかった者も簡単に検索をかけたりして、みることが出来てしまう。そして必ず実感できることもある。「亡くなって残念」なんて言葉は書かないし書けない。「実感した」ことだけを素成夫は書いて送信する。
[とても綺麗な人でしたよ]書かなければいけないレポートを前に、そんなことをして「ウダウダ」する、それもまた先に生きた人と共感しあえる普遍的な事柄かもしれないと思いながら。

先に生きた人たちと、先に死んだ人たち。
生きている側にいるから後も先もなく共感できる。