死とは死によってすべてから去るものであるとすれば、すべてから去られるときも死であるといってよいに違いない。いったい、わたしの友人はわたしを思いだしてくれているのか。忘れるともなく友人を忘れてここに来たのは、むしろわたしのほうであったのに、わたしにはなにか友人に忘れられたことへの怨恨すら感じられて来るのです。目はただ冴えるばかりですが、もし言うように死が大いなる眠りであるとすれば、これがほんとの眠りにおける夢というものかもしれません。
わたしは今どこにいるのか?
と問うてくる声は、生から聴こえてくるのか? 死から聴こえてくるのか?
こうして死んだ人が、われわれに立ちまじってくるために、さも時間の中にいるように、懐中時計を持って来るということもあり得ぬことではない。なぜなら、わたしたちもこうして生きていると思っているが、どうしてそれを知ることができるのか。それを知るには死によるほかはないのだが、生きているかぎり死を知ることはできないのだ。かくて、わたしたちはもどき、だましの死との取り引きにおいて、もどき、だましの生を得ようとし、死もまたもどき、だましの死を得ようとして、もどき、だましの生との取り引きをしようとするのである。それでもこうして、この世も、あの世もなり立っている。深く問うて、われも人も正体を現すことはない。人は生が眠るとき、死が目覚めると思っている。しかし、その取り引きにおいて、生が眠るとき死も眠るのだ。