動物記 / 高橋源一郎


動物が動物を記す

「犬に言葉などいらなかったのです。キャンキャン吠えていれば、それで幸せだったのです。言葉など知るのではなかった。言葉は・・・言葉は・・・不正確です」

動物が動物に向けて記す

「 ある日、わたしは突然気づいたのです。これはどれも「巧妙に書かれた暗号」なのではないか、と。だって、そうでしょう。ことばというものは、そもそも、「あらゆる者たち」に向かってではなく、特定の「誰か」に向かって書かれたものです。時には、その「誰か」との通信は、他の「誰か」にとって迷惑なものなのかもしれない。だとするなら、そんなに簡単に見つかるように書かれているはずがない。そうなのです。これはわたしが、あなたたちに向かっていっていたことでした。まず、文章を、あるいは、ことばを眺めてみるべきなのです。なにも考えずに。もしそれが、あなたたちに向かって書かれているのでなければ、あなたたちはなにも感じないでしょう。けれども、もし、あなたたちに書かれているものだとしたら、やがて、そのほんとうの意味が浮かびあがってくるはずなのだ、と。」

わたしが、動物に向けて、わたしのことを記し、動物が、わたしのことを知るし、わたしに向けて、動物を記す?

「 わたしの希望は、意識がとぎれる前に、一匹の動物が、なにか獣のような生きものが現れることだ。
 その生きものが、わたしを見つめている。なにも映ってはいない、なにを考えているのかわからない、真っ黒な瞳で。それでいい。その生きものが、なにを考え、なにを感じているのか、わからないことは明白なのだから。
 それは、わたしが動物たちを見ていた視線でもあるだろう。わたしが意識を失う前に、その生きものは立ち去るかもしれない。だとすると、わたしは、少しだけ寂しいと感じるかもしれない。けれど、最期を見届けてくれた、その生きものに感謝したいと思うだろう。もちろん、意識が残っていればだが。」

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